二交会

二交会は旧与力町の4番丁、現在の宝町7〜11の地番の町会である。
旧与力町は藩政時代に与力の屋敷地のあったところであるので明治4年(1871)に与力町と名づけられ、1番丁より4番丁までの地番を設けた。

旧与力町は藩政期のはじめまで、石川郡田井村の所領であったが寛文5年(1665)に藩に召し上げられ、5代藩主前田綱紀の代、即ち寛文7年(1668)3月、金沢城下に居住する与力は3年以内に小立野(旧与力町の地)に移住するように命じた。
これが原因で小立野に与力の町が誕生したのである。
与力の屋敷地の様相は延宝年間(1673〜1680)に描かれた金沢城下の地図の中に詳細に描かれている。

明治4年(1871)の住居表示の改正で、この小立野の与力の組地は与力町(1番丁より4番丁)と名付けられた。
この与力町の大部分は明治34年(1901)国立の金沢医学専門学校(のちの国立金沢医科大学)の敷地となり、わずかに与力町1番の一部と同4番丁の一部が居住地となった。

いま、主題の二交会は旧与力町の4番丁の一部である。
昭和39年(1964)の住居表示の改正でこの与力町4番の一部を示めるこの町は宝町の一部(7〜11番)となった。

二交会の町名の由来は旧下百々女木町の一部と与力町の一部とが一町会となったことから二交会と称するようになった。