宝町宝友会

宝友会は昭和39年(1964)からの住居表示の改正により、町名が下百々女木町から宝町に改名された際、町会名も下百々女木町会から宝友会に改称された。
宝友会の名称の由来は宝町6ー14の地に旧藩主前田家の菩提寺「宝円寺」があり、その寺号の「宝」をとり、町名としたものである。

現在「百々女木町」と名乗る町会に上百々女木町会がある。(石引1丁目3号から4号にわたる町)
百々女木と云う町名は藩政期の元禄9年(1698)地子町肝煎裁許附に「とどめき付近地子町」とあり、続いて「馬坂新町」の名がみえる。
文化8年(1811)の金沢名帳では「とどめき」は町名改正前の上百々女木町と現在の上田家あたりまでが下百々女木町、馬坂上の方は馬坂新町と呼ばれていた。
明治4年(1871)の住居表示の改正で上百々女木町と下百々女木町(旧馬坂新町)と呼ぶ町名となり、昭和39年の住居表示改正まで93年有余の永きにわたって呼称されてきた。

百々女木町の由来は、現在の石引1丁目(旧上百々女木町)と宝町(旧下百々女木町)の境界に往時からとどろき橋という橋があり、その下に渓流が轟くような音を立てて流れていた。その「轟」から「百々女木」の字体が作成されたものと思われる。
藩政時代のある時期に轟町と云う字体が充てられた時代もあった。

ここで町会名に話を戻すが現在の宝友会、以前の町名が下百々女木町会、さらに明治末期から昭和10年代の前半まで「徽猷会」と云う町会名がつけられていた。
「徽猷」とは「よい計りごと」と云う意味である。
昭和10年代の後半、町会が大政翼賛会の下部機構として公的な機関となると難解な町会名は廃止となり、町名の下百々女木町そのものを町会名とし、住居表示改正(昭和39年)までその名称を続けた。