紫錦会
紫錦会と云うのは小立野の大学病院前に展開する旧三所町と旧河内町の合同の町会の愛称である。
この町会名の起源は初代町会長高瀬文三氏の大正12年(1923)から昭和10年(1935)の間であろうと推定されている。
町会名の紫錦は小立野台の愛称で小立野飛梅町にあった旧金沢二中の校歌に、また、昭和24年から10年間小立野旧弓ノ町にあった菫台高校、さらに昭和34年から同38年頃に旧上野射撃場跡に建設された新興住宅の町名にも菫町と云うのがあったがこれらはすべて小立野台を菫咲く美しい台地であると云う発想からである。
さて紫錦会の母体である三所町と河内町の町名について以下その由来について述べることにしたい。
まず三所町であるがこれについては三ヵ町の合併があったとか、また白山三所権現尼の三仏画があったからと云う説明があるが何れも確證のある由来の説明ではない。
角川の日本地名大辞典の三所町の項に、万治2年(1659)に材木町より仰西寺(眞宗大谷派)がこの地に移転し、その一帯を仰西寺町と呼んだ。
しかし、文政6年(1823)に三所町と改称した旨が記載されている。
近代の明治の世に入り、同5年(1872)の町名改定の新町名では三所町は藩政時代以来そのまま改名もなく存続、また、それ以前の明治2年(1869)藩政時代からの加賀八家の一家である奥村河内守の屋敷地が河内町と命名され、町立てされた。
こうした古い伝統のある三所町及び河内町が爾後94年経過の昭和39年(1964)住居改正でともに石引町2丁目と云う新町名の中に埋没してしまったことは極めて残念なことであった。
なお、河内町は旧石引小学校の地域を含む大きな町であったと推測されるが、明治35年(1902)の同校の大増築により人家が移転、それが河内町の人口減少に繋がったものではなかろうか。