2018年1月2日 前田利常公の貝塚を尋ねる
小松市埴田町に何時も通る道沿いに、看板が立っている。その前田利常公の灰塚を尋ねた。
この地は、平安の昔、加賀の国府が置かれた地であり、一時は加賀の中心地であった。
江戸時代、一国一城令により金沢城だけが残るはずであったが、前田家は加賀、能登、越中の三ヶ国持ち大名であり、3城まで許されたらしい。
それ故に、二代利長は高岡城に隠居城、三代前田利常は、小松城を築き隠居しながら、藩政を取っていたらしい。
没後は、代官を置き、城として維持管理しており、幕末まで続いた。
前田家は、支藩として、富山(婦負郡)藩、大聖寺(江沼郡)藩、そして七日市藩(群馬県富岡市)も持って居ました。
琵琶湖の畔、海津にも所領があり、琵琶湖の舟運により物資を大坂方面に運ぶ拠点だったようです。
梯川に面し、小松城とは舟運により結ばれていた地であり、小松や後の加賀藩を守りたかったのだろうと思う。小松城は金沢城の約二倍の城域を持つ巨大な城で、小松の旧市街地の大半は城であり、梯川が周囲を取り巻く堅固な平城で、
周囲が蘆の茂る沼地であったために、守りやすく攻めにくい城であったとー言われる。それ故に、芦城と呼ばれて、今も公園の名前となっている。
しかし、明治に入り、全て取り壊されて、小松高校のグラウンド脇に天守閣の石垣を残すのみとなってしまった。
高岡城は堀を残し、古城公園としているのに対して、小松城は芦城公園に痕跡が見られるが、残念なことである。
高校時代三年間天守台の石垣に良く遊んだが、今は、立ち入りも禁止されている。