河崎 徹
第五回 「今日は疲れた…」

今日一日は本当に疲れた。一日中、まじめに働いた訳けでもない。仕事をさぼって夢中で釣りをやった訳けでもない。強いていえば、どうでもいい事を考えすぎたという事だろう。以前、ラジオで聞いて、たいしておもしろくない漫才で、地下鉄の電車をどうして地下に入れたか考えたら、夜も眠れなかったという、そうゆう類(タグイ)のものだろう。
私は仕事場へ行く途中、市内の市場に寄っていく事が多い.今日も一応料理材料を求めて野菜売場へ顔を出す。ナス、キュウリ、ピーマン等がどれも一山(五〜六個)一〇〇円で売っている。私も毎年今頃仕事場の空き地でナス、キュウリ、ピーマン等を作っている。若い頃は「わしは狩猟民族で農耕民族ではない」と変なコダワリを持っていたが、トシと共に野菜作りをやるようになった。特に今年は天候に恵まれ、野菜作りにも熱が入り、これなら売りに出しても十分いけるという出来ばえだった。それでも今日市場で見た野菜はどれもたった一〇〇円である。別に値段にこだわって野菜を作っているつもりではないが、「これだけあって一〇〇円か」と思ってしまう。その時、隣のコーナーから「マツタケ安くしとくよ!」の声がかかる。思わず見ると一本〇千円と書いてある。「こんなもん、一本〇千円か」と私。その言葉に気を悪くしたのか店の兄チャン、「アンタのものより立派やろうが」と、卑猥な例え、こっちも(私も)気分を悪くして、結局何も買わずに来てしまった。仕事場に来て、まず最初に目に付く野菜畑がいつもより色あせて見えた。
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日中はさほどの仕事もなく、夕方我家から電話があり「家族で外食しよう」という事になった。帰り道の途中にあるファミリーレストランで待ち合わせた。夕食時間で中はかなり混雑して、しばらく待って席に着くと、すぐに注文を取りに来る(私の所とは大違い)。そして、こんなに混んでいたらさぞ時間がかかるだろうという私の同情的予想に反して、しばらく待っただけで注文の料理がそろった。それを食べながら、今頃は厨房の中は忙しいだろうな、何人でやっているのかな、いや今時のファミリーレストランは客の注文を聞いたらすぐ出せる体制になっているだろうとか、さらにこの値段だったらいったい材料費はいくらなんだろう、とか余計な事を考えてしまう。
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私が養殖業をはじめて、ようやく育てた魚(イワナ)を売る段階になって、いったいいくらで売ったらいいのか、と迷って友人達に聞いて回った事がある。理路整然とした友人は「まず売れるまでにかかった費用(エサ代等)と、お前の労働価値によって決めよ」ともっともらしい答え。私「それなら一匹千円」、ほぼ同業者の友人「そんな高い値段では誰れも買わない。相場は一匹二〇〇円から三〇〇円の範囲が妥当な所、四〜五人家族がメインデッシュにイワナをと考えたら、庶民感覚で千円としたら一匹二〇〇円から二五〇円」、私「二〇〇円だったら丁度千円で五匹となるし、二五〇円だとしたら、おつりが出て面倒な事もある」。結局、私の説得力のある一言(おつりが面倒)で「イワナ一匹二〇〇円也」と決まった。
また、料理を始める段階でも、いったいいくらに値段を決めるかも迷った。誰れかが「通常は原価(魚)の二倍ぐらいが妥当」、だが別の人間は「養殖の段階ですでにもうけているのだから、それでは高すぎる」、「いや有名な店なら原価の五倍、十倍にもなっている」「それは有名な店だからの話し」「有名でなくても生きた魚をその場で料理するのだからどこの店より新鮮」とケンケンガクガク。そんな折、誰れかが言った。「この店にはかわいい女の子がいる訳けでもないし、どうせ、無愛想な主人だけだろう。だったら二倍でいいんじゃない」、その一言で基本的には原価の二倍という事で決着した。ただ私としては、ビール等の酒類を二倍とするのには気が引けた。ビールの栓をぬくだけで、である。いや、私の店では客が勝手に冷蔵庫からビールを取り出し、コップも持ち出し、手酌で飲んでいるのである。それ故、なるべく客にはアルコール類は自分達で持ってくるように言ってある。私の店に来る酒屋の「御用聞き」は「なんでこの店はあきビンばかり増えるのか」とボヤいている。
この店の入り口には値段表が貼ってあり、ビール(大)四五〇円と書いてあるのだが、不思議な事にビールの値段の所がいつの間にか消えていて、何度マジックで書き直しても又消えてしまうのである。世の中には清く正しい人がいて、わざわざ消して行くのだろうか。斯様に私の店ではいい加減に値段がつけられているのだが、まだ客からはクレームをつけられた記憶はない。話しがちょっと横道にそれてしまった。
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ファミリーレストランでの食事が終わり、時間があるというので隣りの一〇〇円ショップへ寄ることになった。私はいままで一〇〇円ショップの存在は知っていたが行った事はなかった。店内に入って思った事は、どれもこれもなぜ一〇〇円でできるのか、という事だった。あれもこれもと買おうとすると、我家の経済を取りしきっているエライ人が横にきて「安物買いの銭失い」と一言。私の場合、高価なものでもすぐダメ(失う)にしてしまうから安物を買った方が得だ。それにしても、トンカチ、ペンチ等々、私の好きな工具類がみんな一〇〇円である。千円のトンカチを買ってはすぐ失うより、一年で一個なくしても一〇年間買う事ができる。一〇〇円ショップは私の様な物をすぐなくす人間にはアリガタイ店であると、妙に納得して店を出る。袋の中に入った工具が五個ぐらいでズッシリ重く、子供の頃に縁日の店でおもちゃを買ってもらった様な気分である。車の中でそっと開けてみるとみんな「メイド イン チャイナ」である。「そうだろうな。日本ではこの値段では作れまい。これからは中国の時代だろう。戦後復興期の日本とアメリカ関係が、もう間もなく中国と日本の関係となりそうだ。一般の労働者は毎日一生懸命働いているのだろう。日本といういいお手本があるのだから、共産主義が競産主義にならなければいいが」
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少々余計な事を考えてしまった。こんな時は釣り(夜釣り)に限る。途中でエサを買って近くの釣り場へ向かう。エサ代は先程一〇〇円ショップでの買物と同じである。少々いやな気分になる。安くはないけれど、お客さんからは社長と呼ばれている人間である。酒を飲みに行く訳けでもないから高い遊びではあるまい。それにタマにではあるが、家族にも刺身をゴチソウする事もある。釣れなくても社長である。「今日も魚にエサを与えてきた」と太っ腹ですませる事ができる。「エサ代分で魚屋の魚を買った方が」というふとどきな考え方もあるが、「世の中本当の事を言えばいい、というものではない」とたしなめている。今日も予想どおり何のアタリ(魚心)もない。いつもなら魚のいそうな場所(魚心 知りたいと思いつつ 五〇年)を捜して釣るのだが、今日は面倒臭くなり早々に竿をしまう。今日はいろんな事があって疲れた。釣り場で真面目(?)な事を考えるとロクな事はない。魚と一緒にバカにならなければ(食い物=エサに疑問を持つ様な利口な魚は私には釣れない)、釣れはしない。
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家に帰り入り口のとびらを開けるや否や、我妻と娘が飛び出してきて、「釣れた?」といままで私の釣果など気にもしない(釣れたのに 釣果を聞かぬ 山の神)のに、血相を変えて聞く。私が「魚にきらわれた」と言ったら娘は「バンザイ」勝った々、とさけんだ。要するに釣れたか、釣れなかったかのカケをしていたのである。いくらのカケをしていたのかも聞く気にもならず、すぐ床につく。どこからかラジオで「今日、日本の株価が最安値をつけました。銀行の含み損は一兆円を越える…」と、そんな事、わしの知った事か。

   秋風に 負けじと鳴くか セミ一羽
   秋なのか 迷う事なし コスモスの花
   秋の田で 深呼吸して知る 空の高さを


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