「李朝」という言葉を初めて知ったのは、私がまだ20歳くらいの頃で、そのころ深く傾倒していた立原正秋の小説「春の鐘」のなかだった。
それから十数年たったある年の冬、暮れも押し迫った韓国・ソウルを訪れた。全く私的な問題を心に抱えたままの旅であった。
頬に冷たい風を受けながら仁寺洞、長安坪、三喜の骨董街を一人歩きまわり、二つの小さな壷を買い求めた。一つは李朝初期のいわゆる堅手と呼ばれるもので迷いのない轆轤さばきで一気に口べりまで引き上げられた姿が良かった。 店主がいうには砂糖や塩などの調味料を入れたものだろうとのことだった。もう一つは李朝後期、分院と呼ばれる官窯で作られた白磁で、すっぽりと両の手に収まる大きさ、高台の釉だまりの翡翠色が美しかった。
「春の鐘」は山桜を一枝投げ入れるなど立原正秋自身の愛でた李朝白磁の壷から発想を得られた。その壷は提灯壷と呼ばれるもので、視るごとに姿を変えてみせるそれ(もちろん壷が変化するのではなく視るものが揺れて姿が変化)と対峙していた。私には到底そのような壷は買えず、せいぜい先に述べたいづれも野の花を一輪挿すほどのものであったが、そこに在るだけで十分に私の心を受け止め充たしてくれた。
冬のソウルは吸い込まれるような空の蒼さを持ち、それとは対照的な木々のない荒涼とした岩肌の山々が街を囲んでいた。そこには立原正秋の姿があった。あのように強く自分も他人も律した人のなかにこのような韓国の風土が内包され(彼の生まれた慶尚北道とはまた違うかも知れないが)、そして、埋まらない心のすき間を、彼もまた美しきもので充たしていたのだと深く感じたのである。
間もなく来る8月12日は54歳で逝った彼の命日。花の寺として知られる鎌倉瑞泉寺の高みにある墓は、なぜか他の墓とは向きが異なり、それすらも立原正秋彼らしさを思わせた。 |