『御俗姓』(ごぞくしょう)


蓮如の作(文明九年・一四七七年・十一月・蓮如六十三歳)初めに親鸞の俗姓および行化の跡を述べ、報恩講における門徒の心得を説く。 


 それ、祖師(そし)聖人(しょうにん)俗姓(ぞくしょう)をいえば、藤氏として、後長岡(ながおかの)丞相(しょうじょう)内麿(うちまろ)(こう)末孫(ばつそん) 皇太后(こうたいこ)宮大(ぐのだい)進有範(しんありのり)()なり。また本地(ほんじ)をたずぬれば、弥陀(みだ)如来(にょらい)化身(けしん)と号し、あるいは曇鸞大師(どんらんだいし)再誕(さいたん)ともいえり。しかればすなわち、生年(しょうねん)九歳(くさい)の春の(ころ)慈鎮(じちん)和尚(かしょう)の門人につらなり、出家得度して、()()範宴(はんねん)少納言(しょうなごん)(きみ)と号す。それよりこのかた、楞厳横川(りょうごんよかわ)末流(ばつりゅう)をつたえ、天台宗の碩学(せきがく)となりたまいぬ。()(のち)二十九歳にして、はじめて源空聖人の禅室(ぜんしつ)にまいり、上足(じょうそく)弟子(でし)となり、真宗一流(いちりゅう)をくみ、専修(せんじゅ)専念(せんねん)の義をたて、すみやかに凡夫(ぼんぶ)直入(じきにゅう)の真心をあらわし、在家(ざいけ)止住(しじゅう)愚人(ぐにん)をおしえて、報土(ほうど)往生をすすめましましけり。

 そもそも、今月二十八日は、祖師(そし)聖人(しょうにん)遷化(せんげ)御正忌(ごしょうき)として、毎年をいわず、親疎(しんそ)をきらわず、古今(ここん)行者(ぎょうじゃ)、この御正忌(ごしょうき)を存知せざる(ともがら)あるべからず。(これ)によりて、当流(とうりゅう)にその()をかけ、その信心(しんじん)獲得(ぎゃくとく)したらん行者(ぎょうじゃ)、この御正忌(ごしょうき)をもって、報謝の(こころざし)をはこばざらん(ぎょう)(じゃ)においては、(まこと)にもって、木石(ぼくせき)にひとしからんものなり。しかるあいだ、かの御恩(ごおん)(どく)のふかきことは、迷慮(めいろ)八万の(いただき)蒼瞑(そうめい)三千の(そこ)にこえすぎたり。報ぜずはあるべからず、謝せずはあるべからざる者か。()(ゆえ)に、毎年の例時(れいじ)として、一七(いちしち)(にち)のあいだ、(かた)のごとく報恩謝徳のために、無二(むに)勤行(ごんぎょう)をいたすところなり。()(しち)日報恩講(にちほうおんこう)(みぎり)にあたりて、門葉(もんよう)のたぐい国郡より来集(らいしゅう)、いまにおいて()退転(たいてん)なし。しかりといえども、未安心(みあんじん)行者(ぎょうじゃ)にいたりては、(いか)でか報恩(ほうおん)謝徳(しゃとく)()これあらんや。しかのごときのともがらは、この(みぎり)において仏法の信・不信をあいたずね、これを聴聞して、まことの信心を決定すべくんば、真実真実、聖人報謝の懇志(こんし)相叶(あいかな)うべき者なり。(あわれ)なるかな、それ聖人(しょうにん)の御往生は、年忌とおくへだたりて、すでに一百余歳の星霜(せいそう)を送るといえども、御遺訓(ごゆいくん)ますますさかんにして、教行信証(きょうぎょうしんしょう)名義(みょうぎ)、いまに眼前にさえぎり、人口(じんこう)にのこれり。(とう)とむべし、信ずべし。これについて、当時真宗の行者のなかにおいて、真実信心を(ぎゃく)(とく)せしむる人、これすくなし。ただ、人目(ひとめ)・仁義ばかりに、名聞(みょうもん)のこころをもって報謝と号せば、いかなる志をいたすというとも、一念帰命(きみょう)の真実の信心を決定(けつじょう)せざらん人々は、その所詮(しょせん)あるべからず。誠に、水に入りて垢おちずといえるたぐいなるべきか。これによりて、()一七(いちしち)(にち)報恩講(じゅう)において、他力(たりき)本願のことわりをねんごろにききひらきて、(せん)修一(じゅいっ)(こう)の念仏行者にならんにいたりては、まことに、今月聖人の御正日(ごしょうにち)素意(そい)相叶(あいかな)うべし。これしかしながら、真実真実、報恩(ほうおん)謝徳(しゃとく)の御仏事となりぬべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。