上手、うまい、いい絵は違う  〜 洋画家 高光一也 〜

北國新聞社・蔵

特高が「待った」

2.26事件の起きた昭和11年、石川県警察部特高課から風紀を乱すとして展覧会場から撤去を命じられた洋画家高光一也の作品「裸婦」が、北國新聞社所蔵の80号作品である可能性の高いことが20日までに、石川県立美術館の二木伸一郎学芸専門員の調べで分かった。同事件後の張り詰めた空気の中で、女性美を追究し「芸術か」「わいせつか」のせめぎ合いに揺れた若き高光の作品は、今回の調査により、時代の話題作として再び注目を集めそうだ。

昭和11年9月の“高光裸婦画事件”は、金沢市での金城画壇展に出品された高光の作品を、特高課が「風紀上面白くない」として主催者側に撤去を命じた。これに対して、同展関係者は芸術作品であると懸命に説明を続けた結果、一部を修整した上で特別室に展示し、鑑賞者を限定することで決着した。

二木学芸専門員は高光生誕100年の企画展のため、北國新聞社から借り受けた制作年代不詳の80号の作品を調べたところ、昭和12年2月に開かれた個展の目録に描かれている裸婦デッサンと、この作品のポーズが酷似していることを見つけた。

同年前後をさらに詳しく調べてみると、昭和11年、特高課が撤去を命じた高光の裸婦画について、同年9月19日付北陸毎日新聞(現北國新聞)に「ソファーに腰をおろした肉体の豊満な曲線美は神経過ぎるほど感覚を現した魅力を持つ(略)首飾りはなくもがなと評する人も…」との記述を見つけ、2つの作品が結び付いた。

昭和10年前後の高光の裸婦画はほとんど上半身の10号以下で、80号の全身像は異色。高光は昭和12年の新文展で入選3回目にして特選を射止め、スピード記録として脚光を浴びており、同学芸専門員は「特選に至る高い描写力を磨いたのが昭和11年ごろ。対象に迫る確かな技量を身につけたことがこの作品からも伝わり、当時の会心の一作だ」と話している。

  • 1907(明治40) 1月4日、金沢市北間町イ50に、真宗大谷派専称寺住職高光大船の長男として誕生
  • 1925(大正14) 石川県立工業学校図案絵画科卒業在学中、岸田劉生の率いる草土社に傾倒
  • 1929(昭和4) 暁烏敏の紹介で中村研一に師事
  • 1932(7) 「兎の静物」第13回帝展初入選
  • 1937(12) 「藁積む頃」第1回新文展特選
  • 1941(16) 陸軍報道班員として徴用され、海音寺潮五郎らとインドシナ半島に派遣
  • 1946(21) 金沢美術工芸専門学校(現金沢美術工芸大学)開校。創設に参加し、翌年講師
  • 1947(22) 「みなみを想ふ」第3回日展特選
  • 1954(29) フランスに留学、30年夏に帰国
  • 1955(30) 金沢美術工芸大学教授に就任
  • 1958(33) 日展会員
  • 1963(38) 「収穫」第6回新日展文部大臣賞受賞
  • 1969(44) 金沢美術工芸大学を退官、名誉教授
  • 1971(46) 日展出品作「緑の服」等により、芸術院賞受賞
  • 1979(54) 日本芸術院会員
  • 1983(58) 石川県立美術館開館に際し、自作油彩画106点、水彩画30点を寄贈
  • 1986(61) 文化功労者、11月12日逝去(79歳)、金沢市名誉市民
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