長家家譜 (綱連2)
同四年十一月上杉謙信その兵万余人能州へ乱入。
謙信帥師武田勝頼の旗下江間常陸(飛騨半国主)・椎名肥前・平康胤(越中豪士、松倉城に住す)・同小四郎らを
打ち従え、飛州に白屋筑前その子監物を差し置き、越中松倉城に河田豊前を留め守らしめ、同年十一月加州へ出陣、
数日逗留これ有り。
同十七日加州津幡を発し、その勢一万余人その日外高松に到る。
末森の城主土肥但馬兵を北川尻へ出し前途を遮らんとす。
謙信使節を馳せて和議を請う。
これにより異儀に及ばず但馬兵を納む。
翌十八日謙信高松を発し一宮に陣す。
十九日瀧谷加茂庄を経て大槻に着陣。
二十日天神河原にいたる。
これにより一族並びに諸将各居城を引き払い七尾へ籠城、持ち口を定めて堅固にこれを守る。
時に綱連二本松伊州と軍事を議り、籠城守兵の手分を定める。
大手赤坂口綱連・杉山則直・孝恩寺守衛、搦め手大石谷温井景隆・三宅長盛、木落口遊佐義房らこれを守り、そのほか
神保長頼・平・誉田・隅屋・伊丹・甲斐庄・飯川・熊木以下畠山の諸臣所々を守る。
続連並びに伊州は屋形を守護す。
翌五年三月に至るまで迫り合い数度に及ぶ。
時に綱連賢慮を廻し、旧好の士民等をして党をむすび、一揆を企て越後勢の陣用を防ぐべきの由下知有り。
これにより能登部笠師村番頭・長浦村徳昌寺(一向宗。のち川尻に住す。)・潟崎上向寺(一向宗。はじめ白浜に住す。)
・土川村小森太夫右衛門・吉田村蒲左衛門ら棟梁として、同意の一揆惣勢六千余人なり。
勇気にほこり下知の趣を違戻し、七尾に至り後詰めすべしの由示談して妄りに蜂起す。
謙信この事を聞きて時日を移さず速やかに討ち平ぐべきの旨下知して、河田豊前兵将となりその勢四千笠師表に押し詰
め、蠣浦は番頭の宅地の間小流を隔て相対す。
時に事急迫なるが故に一揆勢僅か二千余人なり。
河田軍を三つに分け、進み討ちて押し散らし、一戦に勝利を得、ついに番頭夫婦を生け捕る。
河田又兵を分かち、所々へ押し寄せ悉く一揆を討ち敗り、上向寺・小森太夫右衛門・蒲左衛門等討ち死にす。
徳昌寺父子の夫婦を生け捕り、そのほか討ち取る首凡そ七十余なり。
一揆悉く静謐す。
既にして河田彼の生け捕りの者共大手赤坂口においてこれを磔、首級も同所にこれを梟す。
ここにおいて一揆残党等再び震い能わず、その越後勢の武威に怖れ散在隠伏す。
然りといえども綱連諸将に命じて城の守り厳密にして勢気更に屈せず。
謙信その破りがたきを知りて城を囲みて越年せり。
翌年正月十八日木落口において、越後勢遊佐家人等と迫り合い、遊佐家士木寺久兵衛(のち池田小五郎と号す。また
池田久兵衛と改める。)突戦し敵兵二人を討ち取る。
然りといえども城堅固にして陥らざる故、謙信古城を取り立て、或いは諸将居城の間を伺い守将を置く。
熊木中島城斎藤帯刀並びに七杉小伝次・山本寺平四郎・内藤久弥、富木城藍浦長門、穴水城長澤筑前・白小田善兵衛
等、甲山城平子和泉・轡田肥後友綱・唐と式部春政、棚木(一説に正院)長与市景連、麻嵩(のち荒山と号す。今また
勝山という。)上条織部惣警固となる。
並びに畠山将監(永禄八年義綱と共に走りて、のち謙信に属す)相副えこれを守る。
同四月十二日(一説に三月)越後へ帰陣。
今年謙信上州へ発向の事ある故帰陣すという。
同五月十六日綱連、一族並びに畠山の諸将を率し出軍、まず熊木城を攻め落とす。
この時穴水・甲山後詰めの押さえとして、杉山伯耆・温井備中及び松波丹波、その勢千五百別所に陣す。
綱連本陣を宮前村に居き熊木城へ取り詰め、平綱知先陣たり。
数日攻城兵略を廻し、この間家人岡部藤左衛門ら戦死。
時に甲斐庄駿河家繁計略を以て、守将斎藤帯刀をして降伏せしむ。
七杉小伝次同心せず、甚だその怯懦なるを怒りて自殺す。
内藤久弥・山本寺平四郎も斎藤と同じく降りて出城す。
甲斐庄駿河・仁岸友連をして城を請け取らしむ。
斎藤以下綱連陣に来たりて拝謁す。
その後七尾宝幢寺(浄土宗)に遣わせ、首をはねらる。
それより富木城を攻めて落城に及ぶ。
この城へは誉田弾正・長十郎右衛門・杉原和泉・藤尾右近押し向かいこれを囲み、城将藍浦防戦の術を尽くすといえども
保つこと能わず落城す。
守兵所々に逃散、藍浦は城内にして切腹す。
謙信足軽大将寺崎掃部政国(越中の住士願海寺弟)黒島において討ち死に。
江口市丞(畠山家士。のち温井手に随う。)これを討ち取る。
これより誉田等、綱連下知を以て穴水へ発向。
同月下旬綱連諸軍を率い穴水城へ取り詰め、強盗塚に陣を居き攻城に及ぶ。
甲山後詰め押さえとして温井備中・神保出羽中居口に陣す。
穴水城は堅固の地、殊に長澤能者にてよくこれを守り、数月攻城に及ぶ故、七月上旬遊佐美作・三宅備後七尾より来たり
て温井・神保に替わる。
このほか諸勢各交代す。
そのうち加治主殿(唐人式部兄なり)交代に赴くのところ、甲山城主平子和泉七尾勢往還の中途を遮り、轡田肥後・唐人
式部兵将となり三百余人を率い、七月十二日の宵筆染村に着船し、豊田・笠師の山中に隠伏す。
同十三日午刻加治主殿吉田の坂を越え唐人、加治たることを知らず兵を起こし不意を討ち、加治防戦すといえども勝ちを
得ず、従卒敗亡、加治自殺せんとす。
時に唐人馳せ来たり加治を見て大いに驚き、速やかに退去すべしの由勧むといえども、加治これを用いずついに自殺す。
同十八日甲山城守平子和泉穴水援勢として、轡田肥後・唐人式部両将となし数百人漁船に偽り押し来る。
時に孝恩寺人数を率い、敵の不意を討ちて大いに勝利を得給う。
同年閏七月謙信八千余の兵を率いて再び能州へ発向に付き、綱連穴水城の囲みを解きて七尾へ帰陣のところ、長澤筑前
城を発し兵を進む。
甲山の城守平子和泉・轡田肥後・唐人式部等兵を率い半途新崎へ出向き、帰陣を遮り一戦に及ぶのところ、勝利を得給い
敵軍を討ち取り、首十級討ち取り異儀なく七尾へ帰陣。
畠山家の諸将兵士相随い籠城し給う。
謙信能州へ発向のため、閏七月上旬越中氷見庄へ出張す。
同月十五日二本松伊州・温井備中書翰をして綱連へその事を告ぐ。
これにより翌十六日寅の刻、穴水城囲みを解きて七尾へ帰陣。
先陣杉山直則・飯川義清・遊佐義房、中軍綱連、殿後三宅長盛並びに熊木兵部・国分五郎兵衛利信・長与次等なり。
時に長澤筑前城を発し付き慕い、三宅備後勇略を以て恙なく兵を引き揚げる。
甲山の敵兵新崎へ出張し綱連の軍を遮る。
孝恩寺兵士を指揮し給い、敵兵を討ち敗り勝利を得給う。
家人宇留地彦八左衛門那田内條において討ち死に。
松波常陸家人田向清右衛門(のち家人となる。大聖寺において討ち死に。)敵兵を討ち取りよく戦う。
さて謙信は加州を経て一宮に陣し、同十六日申の刻大槻に着陣す。
同刻綱連七尾府中に御着きのところ、謙信大槻に陣する由を聞きて諸勢大いに騒乱す。
綱連大閤子織物の具足羽織を召し、床机にかかり給い団扇を以て指揮し給う。
これにより諸勢異儀なく城内へ引き入る。
三宅長盛士卒を下知して備えを乱さず付き慕う敵を防ぎて、同日戌の刻に七尾城へ入る。
平子和泉・轡田肥後・大瀬勘兵衛・長澤筑前・長江・白小田ら惣勢千四百余七尾まで付き慕う。
時に後殿のうち国分五郎兵衛田鶴郷名無木において、家人堀藤兵衛と共に敵兵二人を討ち取り、城に入ること能わず
その夜岩屋に隠れて、ひそかに鳥越山を経て翌十七日七尾城に入る。
長三河連理津向において討ち死に、斎藤石見も津田において討ち死にす。
このほか引きおくれたる輩所々において討ち死にす。
さて綱連下知を以て備えを定める。
大手赤坂口綱連・杉山則直・孝恩寺・平綱知・飯川義清そのほか一族、搦め手大石谷口温井景隆・三宅長盛、木落口
遊佐続光・息義房、そのほか誉田弾正・隅屋遠江・甲斐庄駿河・神保周防ら所々これを守り、二本松伊州・続連屋形を
守衛たり。
十七日未明謙信軍を進めて天神河原に至り七尾城を囲み攻める。
翌十八日長和泉、田鶴郷潟崎上向寺門前において討ち死にす。
家人坂本甚左衛門及び隼介討ち取られる。
(隼介は和泉が奴僕なり。真っ先に進み鑓に貫かれるといえども、その鑓を手繰りその敵を討ち、勇力を働き討ち死に
す。)
和泉嫡子与次味方に離れ豊田村(和泉数代伝領の地)百姓今井という者の家に隠宿し、同二十二日夜ひそかに船に乗り
て津向へ着岸して、間路を経て七尾城へ入るべき事をはかるといえども、相伴う浪人宮野佐左衛門(和泉年頃に懇情を
加える者なり)悪意を構え、与次を欺き七尾府中へ着船、忽ち越後勢にこれを告ぐ。
これにより敵襲来たりて与次並びにおさみ勘兵衛討ち死にす。
謙信甚だ宮野が造意をにくみ、搦め捕りこれを磔す。
和泉父子首、七尾大手赤坂口に梟す。
時に春丸(五歳)疫疾により卒去。(二十三日。一説に二十一日。)
定連同病にて卒する故、城兵勢気衰う。
これにより孝恩寺をして信長へ援兵を乞わせる。
時に疫疾流行、城内の士卒この病疫にかかり死する者甚だ多し。
就中屋形卒去によりて城兵勢気衰う。
これにより孝恩寺をして急を安土に告げ、援兵を請い給う使いを命ず。
孝恩寺大切の御使いなれば僧徒のみとして如何に候間、連常に命ぜられ然るべきの旨辞退これあり。
綱連今度の籠城敵多勢といい、殊に弓矢を取りて威名天下に響く上杉謙信を敵として今この一城に蟄し、これに加え春丸
は卒去、城中の衆心殆ど測り難し。
我が家の興亡この時にあり。
若し早く織田家の後援を得、運を開くべきは大幸なり。
然らずば氏族当城において滅亡すべし。
然る時は当家復興の器全く孝恩寺にあり。
既に当夏信長公へ使いせしも後来の所存これあるによりてなり。
然る上は辞退あるべからずの旨命じ給う。
孝恩寺すでに承諾得るをなされず、暇乞いの盃これあり。
綱連より太刀一腰(備前光忠)これを進める。
ひそかなる御使いなれば人は召し連れまじき由仰せありけれども、せめて一人召し連れるべき旨に付き、好みを以て
鹿島路小次郎(のち九兵衛と号す)召し連れ、同二十四日発船、海路を経て江州へ赴くなり。
同二十六日二本松伊州疫疾に罹り卒去、城内兵気ますます衰う。
この間綱連ひそかに奥郡旧好の土民等に一揆を催し、越後勢の船手を断つべくの旨下知を以て、鳳至郡小伊勢村番頭
八郎左衛門(片岡氏)棟梁となりその党百余人、そのほか同意の一揆等三百余人、相共に蜂起し穴水辺に乱入す。
事すでに七尾に達す。
これにより謙信長澤筑前・平子和泉に命じて両手その勢六百余人、穴水に至り悉く追い散らす。
一揆敗走、小伊勢村番頭平野村において討ち死に。
そのほか一揆等三十余人命をおとす。
同九月に至るまで籠城、しばしば戦力を尽くし堅固にこれを守る。
時に遊佐続光・同義房上杉の内応によりて隠謀を挟み温井景隆・三宅長盛に語らう。
温井・三宅、綱連の陣に来たりて共に上杉家へ降伏せん事を勧めるといえども承引なく、当家の儀信長公へ随順の約これ
あり、すでに孝恩寺をして援兵の儀を上聞に達す。
援兵未だ至らず籠城の難を思うて敵に降るは武夫の恥じるところ、人倫のなすべき事にあらず、防戦尽きる時は血戦して骸
を曝さんと、更に以て許容なし。
温井・三宅その理に伏し異心なき躰にて退き、ついに続光と心を合わせ密計を企てる。
同十五日綱連持ち口名赤坂において防戦の内、
家臣等尤も武力を尽くし、阿岸次右衛門綱連の馬前において力戦し首を取る。
且つ太刀を打ち折り、その働き感じになり太刀(来国次)これを賜る。
続連をはじめ遊佐が第へ招かれる事これありの由告げ来る。
綱連持ち口防戦の指揮合田民部に命じ、彼の第へ駈け付けるところ、温井等中途に伏兵を設け襲う。
これによりついに戦死す。
ここにおいて七尾ついに落城す。
この時温井景隆家士小南内匠月剣の鑓を以て、綱連左の股草摺懸けて馬より引き落とし、温井が党坊才阿彌(強力なり)
馳せ合い組み、綱連才阿彌が首を捏ねり膝に敷き、才阿彌忽ち命をおとす。
そのほか数輩傷を被る。
小南鎧(甲冑銀琢。太刀鮫鞘。)の草摺ばつれ二刀突くのところ、敵兵数多く馳せ重なり小南ついに首を討つ。
家人岩田釆女等数輩所々において戦死す。
ここにおいて七尾城没落す。
杉山伯耆病気たるによりて私第において自殺。
飯川義清一所に生害。
綱連二男竹松丸(十四歳)・三男井上弥九郎(九歳。はじめ駒市丸と号す。畠山の臣井上下野英教養子。)及び杉山三郎
(伯耆息男。遊佐続光の婿となる。母温井備中入道紹春女。)そのほか女性等漸くまぬかれて山路を経て石動山に赴かる
。
時に遊佐・温井下知を以て、井上下野兵を率い追い尋ねる。
井上は親好これある故猶予すといえども、その余の兵士追い至る。
土田喜助等従いこれを防ぐといえども能わず、ついに三人を害する。
末男菊松丸(五歳)乳母抱き、まぬかれて越中へ退隠す。
(成長の後出家。浄土宗四箇本寺の内京都において浄花院修学。後年加州心蓮社の開基なり。)
既にして遊佐父子家人木寺某を以て、続連・綱連・連常・連盛・竹松丸・弥九郎・三郎、以上首七を島津淡路方にこれを
送る。
この時謙信石動山大宮坊に一宿、河田豊前長親・鯵坂備中を以て七尾城を請け取る。
この節花渓寺(今の東嶺寺)古田和尚、続連・綱連以下の遺骸を葬るべき事を謙信に請い、謙信感じこれを許す。
八田村金胎寺・(平加賀信光二男。はじめ越後に住し称念寺他阿上人なり。信光はじめ盛信という。)亀源寺祖繁、
(温井家の菩提所平僧なり)七尾没落の由聞きてこの所に来会、古田和尚と共に遺骸を尋ね求め、十輪寺(今の悦叟寺)
に葬る。
年三十八歳。
配偶畠山家臣温井景長入道紹春の息女なり。
付録。
松波常陸介義親は(畠山一族)七尾を遁れ去りて、神保周防長頼・河野肥前・熊木兵部等同意して居城松波を守保し、
奥郡の一揆をかたらう。
これにより長澤筑前兵を卒し松波城を囲む。
上杉の足軽大将計見与十郎先陣に進む、神保長頼城外へ出て計見と力戦互いに雌雄を決せず。
その後周防敵兵多く討ちついに戦死。(六十四歳)
熊木兵部も戦死。
義親は自害し遂に陥城す。
河野肥前手勢を引率し所領堀松へ退去、長澤これを慕い堀松において回戦し、肥前もついに戦死す。
ここにおいて能国上杉氏の有となる。
既にして謙信国内を仕置きし、七尾城に鯵坂備中を主将とし、直江大和・松川兵部・せんこ壱岐・計見与十郎・鈴木因幡
・石動山古海三助秀次三百余人、(衆徒の心測り難きによりて、七尾落城以前より秀次これを守る)穴水に長澤筑前並び
に白小田善兵衛・長江某・正院長与市景連・鳥倉吉蔵・熊倉伊勢、甲山に平子和泉・轡田肥後等を置き、能国を守衛
せしむ。
上条織部・畠山将監も暫く七尾に在城す。
同月下旬謙信能州を発し加州へ出馬。
時に遊佐等この度内応の儀によりて恩賞の事を思うといえども、その沙汰なきによりて心中安らかならず。
この時途中に出謙信の気色を伺うに、謙信萌純子の胴肩衣を着し頭を白布を以てかつら包みにし黒馬にまたがり、馬上
より高声に遊佐今度の忠節神妙なり。
兼ねて役の如く能州において先領の地は勿論、長家の一跡並びに彼の氏族の所領収むるの地、越後へ帰府の後沙汰
すべし。
来春に至り上方へ出馬し信長と有無の一戦を遂げべく條、その節は今般能国帰服の兵士を遊佐等に任せて先登申し
付けるべくなり。
その軍功によりて猶更加恩すべくの間、その段相心得るべしの由なり。
遊佐その厳威を見て戦慄敬屈せり。
後日嫡孫孫太郎景光(のち家人となる。宇野蔵人と号す。)を以て質として、河田豊前に属し越後へ遣わす。
その後遊佐・温井・三宅各越後へ行きて謙信に拝謁す。
ここにおいて遊佐は長氏の讐敵の魁たれば能州へ帰る事然るべからず、越後に在留すべし。
温井・三宅を上杉の与力分として采地を加恩して、各能国へ帰し所々に在城せしめり。
さて謙信は同二十九日加州津幡に至り陣す、その勢六千余。
それより松任城を責め、城主鏑木右衛門尉頼信防戦の術を尽くし城陥らず。
謙信思慮を廻し、一万貫(一説に一万石)の所地加恩せしむべきの約束を以て和融事なる。
鏑木家臣白石右近謙信に拝謁す。
謙信右近に脇差しを与う。
ここにおいて謙信松任城に陣す。
七尾援兵既に加州水島に着陣す。
謙信今度七尾において獲るところの首七、倉部・柏野中間に梟し上方勢に視す。
ここにおいて七尾落城の事を察して上方勢は帰陣す。
謙信は年来望むところの一戦勝利手の裏にあり、明旦兵を進めて織田勢を討ち敗るべく、各忠を抽くべきの由下知を
加える。
一番貝に糧食し、二番貝に物具を着し、三番貝に打ち立つべき旨軍令を下す。
その夜城内において猿楽(三番あり)を催し、翌日未明に軍を進めて水島に至る。
時に織田勢悉く退散す。
謙信上方勢甚だ武勇拙きを嘲弄し、引き残れる雑人等数十人を切り捨つ。
猶進んで越前に押し入り、旗を丸岡に進めて民屋を放火し、それより越後に帰陣す。
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以上。