長家家譜 (連龍1)
連龍は続連の三男なり。
天文十五年丙午八月十五日出生。
幼名萬松君。
幼年の節禅宗臨済派の沙門に入り、宗先と称する。
能州熊木定蓮寺において勤学。
後年同国鹿島郡池崎孝恩寺に住職する。
若年の時分より度々戦場に臨み、武功を顕わす。
永禄十二年八代安藝俊儀誅戮のため綱連発向の節、門弟郎党等数十人引率し、鶏塚へ押詰め戦功あり。
天正四年十一月、上杉謙信入道能州へ発向七尾の城へ押詰めの節、父兄と一緒に七尾に籠城、大手赤坂口を守り、
翌年三月より籠城。
この間迫合数度戦力を尽くす。
同年四月謙信越後へ帰陣。
これにより同五月上旬綱連より信長へ言上の使いを勤める。
同月綱連一緒に七尾城を発し、上杉家の砦冨木・熊木の両城を攻め落とす。
なお奥郡へ発向し穴水城を攻囲のところ、同七月上杉家の将轡田肥後・唐人式部ら、穴水援兵のため数百人兵船を
浮かべ穴水の海上へ押し来るところ、宗先は従兵を率い、甲冑も着けず白帷子に竹子傘にて、乙ヶ崎の山陰より
敵の不意に押し懸かり、ことごとく討ち取り敵船を乗っ取り、首七十四級討ち取り勝利を得る。
七月十八日甲山城の平子和泉は穴水を救うため、轡田肥後・唐人式部両将として数百人漁船に偽り押し来る。
けしからぬ船なれば物見を遣申にやと評議ありけるを、宗先遠望、敵船たることを察し、則ち迎え討つべきの旨
綱連へ言上し、綱連の槍を提げ駈け着ける。
このとき阿岸掃部走り付け、具足を脱いだがそれを着けなかった。
綱連は下知をもって阿岸掃部ら、かれこれ二百五十人を従えさせた。
松波丹波(松波常陸介義親の弟)・河野肥前その勢百五十人ばかり指し続きて手に属し、宗先は南方山際の閑路
より乙ヶ崎の山陰に兵を伏せ、時宣をはかる。
敵はこれを知らず乙ヶ崎へ着岸、過半が陸へ押し上がったところ、一陣に進み、「今日の一番鑓は孝恩寺」と
大言にて突戦、手勢の勇士競い進みてこれを討つ。
敵は不意に当たりて騒乱敗走し、あるいは討たれあるいは海水に没し、大いに勝利を得た。
残兵わずかにまぬかれて甲山へ漕ぎ退く。
轡田・唐人ならびに板倉伝右衛門(後に御家人。大聖寺において討死)、舟に乗り遅れ旗竿によって海水を泳ぎ、
かろうじて穴水城に入る。
同年閏七月謙信再び能州へ発向。
これにより綱連奥郡を引き払い七尾へ引き取りの節、甲山の敵平子和泉・轡田肥後・唐人式部ら半途新崎へ出張し軍を
遮る。
この節宗先は先登敵兵を討ち取り勝利を得、異儀なく七尾へ帰陣。
綱連と一緒に籠城。
ときに畠山春王丸卒去につき、城内の将卒勢気を失いしかば、綱連は信長へ援兵を乞うため、この使いを宗先へ命じた。
これにより同月二十四日七尾を船で発ち、海路を経て安土へ参向し、委曲を菅屋九右衛門長頼をもって信長へ言上した。
信長は許容これありといえども、東南の敵方手づかえの儀につき事は遅延に及ばる。
既にして諸将に命ぜられ援勢のこと定める。
その援将には柴田勝家・丹羽五郎左衛門尉長秀・長谷川藤五郎秀一・稲葉伊予守通胤・滝川左近将監一益・羽柴秀吉・
前田利家・徳山五兵衛則秀・柴田伊賀守勝豊・佐々内蔵助成政・不破彦三・金森五郎八・堀久太郎秀政その勢四万余、
宗先とともに九月下旬安土を発し、十月上旬先陣が既に加州水島まで着陣のところ、十三人の物見が走り来たり、
「七尾落城と相見え長家一族の首の由倉部浜に首を梟し、さて謙信は松任に着陣の由」これを告げる。
それにより諸将評議これあり、梟首の実否を宗先へ見届け候て参るべく旨につき、宗先はすぐに行きこれを見て帰り、
諸将に向かい「梟首の実否見届け候が全く父兄の首にあらず、諸将を欺くための計略なり」と言った。
その夜、宗先はひそかに秀吉の陣場を訪ねて、「先刻は偽り言を申し候。まことに我が父兄をはじめ一族の首にて候。
前にまことを述べば諸将の気たわまんことを恐れ偽りて申し候。七尾の陥城疑いこれなしといえども、謙信当国へ出張
の由相聞こえ候、これより兵を進められ謙信を撃ち、すなわち父兄の仇を報ぜん」と嘆願したが、秀吉は許容これなし。
「その志切なりといえども、七尾陥城のうえは信長公の御下知なくては私に決し難し」と一戦の旨各評議これあり。
水島より帰陣につき、是非能わず愁憤を押さえ、掛け置き候首を取り収め、ともに安土へ帰陣なり。
さて安土において秀吉へ属し、義兵を起こし、父兄の仇を報じ、大義を建てるこの度の段信長へ愁訴これありのところ、
秀吉曰く、「今度手前播州拝領し、中国征討の使いのため彼国へ赴く。しからば我が手に属し軍功を立てるにおいて
は、信長公に達し中国にて一州を報ずべくなり」とありければ、宗先は「父兄の仇を指し置き、このことに随うは志
の向かうところにあらず。たちまち骸をさらすといえども能国に赴き父兄の仇を討つは本懐」の由にて、同心これなし。
秀吉は、はなはだ孝志を感じ、菅屋長頼をもって信長へ上聞に達する。
秀吉承諾し、菅屋九右衛門をもって委曲言上あり。
信長が聞き宗先へ上意の趣は、「その方さぞ無念に存ずべくことは勿論なり。それがし只今まで北国のこと打ち捨て
置きは、思う子細ある故なり。加賀・能登・越中発向せば謙信相向かうべし。しからば半年も懸かるべし。自然上方に
おいて騒動できるならば、ことのほか難しからんと内々思う故、緩々と打ち捨てたり。しかれどもその方はそれがしに
親しみ、一家に放れたることなれば不憫というも余りあり、追い付け進発すべし。しかれども今中国戦伐の時節故、
兵士分与し難し。助勢の儀柴田勝家申し付け候、罷り越し相談あるべき」旨なり。
且つ「長家復興の基を立つべくにおいては、僧体しかるべからず還俗あるべし」の旨命ぜらる。
且つ営中において饗応これあり。
このときの相伴は中村?伝次。
それより越前北ノ庄へ下り、勝家と議り兵士を駈け催し、
時に勝家に救援の儀頼みこれありといえども果たさず。
これにより浪士を集める。
招きに応じ来る者は、松平久兵衛康安(一説に康定)・黒瀧法橋玄仙・佐々源太・斉藤入道一盛ら、かれこれ五百人。
能州へは伊久留了意に人数才覚のことを命じる。
これにより了意能州へ下り池田栄斎と申し談じ、内外の浦を触れ地下人どもの味方申し上げる。
且つまた能州敗乱の後散在の旧臣慕い来たり、相随うその数三百余人、浪人武者ら合わせ八百余人。
さて越前三国津において森田某(成功の後、恩賞あるべしの約命によりて娼斯の由)艤し八艘を調進す。
既にして三国津を出船、能州富来浦一里ばかりに押し至りて、難風たちまち起こり船を富来へ着岸することあたわず、
再び三国の津へ吹き戻す。
この間加州鳩る津舟(近代作黒津舟)沖において、供の兵船三艘破損す。
時に烏合の兵士過半退散す。
然りといえども孝恩寺撓屈せず、重ねて兵士を集める。
能州に散在する家臣が在居のところをしたい馳せ来る。
天正六年八月上旬越前三国の津より出船、能州富来浦へ着岸。
近郷に散在する家臣馳せ集まり、都合勢千余人に及ぶ。
時に穴水城に上杉家臣長沢筑前・白小田善兵衛ら在城す。
同月十四日(一説に十三日)先この城へ押し寄せ、一戦に勝利を得る。
このとき輪島住人中島藤次、(畠山の家士中島伊与門葉なり。累代伝領の地に居し、その旧好を以て志を通ず。)義兵
を思し召し建てるの由、これを聞き大船三艘を調え、越前三国津へ着船して迎える。
孝恩寺その志に感悦し、すなわち乗船する。
おしなべて舟九艘になる。
さて穴水取り詰めのときまず飯の平(今に云う犬の平)に陣を居き、旗の紋のぼり龍・下り龍。
この節奥郡正院一揆発起す。
討ち平ぐべきため城主長澤筑前、鰺坂備中とともに正院へ出陣し、白小田善兵衛・長江氏ら留守す。
これにより白小田・長江ら防戦の術を尽くす。
家人谷大学采幣を取りて一陣に進み、越前浪人杉浦與三は城兵小田藤蔵と一番に槍を合わす。
ときに藤蔵父小田孫市郎藤蔵を救い、杉浦與三討ち死にす。
富来金龍山大福寺北坊神主藤七郎・兼右衛門ら、手に属し戦死す。
家人宮川清右衛門一番首を得たり。
合田民部よく戦い深く傷ついてその場を退き、後日死す。
孝恩寺兵士を励まし、しきりに責め破り、白小田・長江ら戦力きわまり甲山に出奔し、ここにおいて落城す。
則ち城を乗っ取り入城。
これにより上杉家の諸将平子和泉・長澤筑前・同七次郎・松川兵部・計見與十郎ら、ならびに遊佐美作・温井備中・三宅
備後穴水を襲い攻めるところ、孝恩寺城外へ出張り、月崎・中居・強盗塚・新崎・棚木・屋波・内浦・出浦など所々にて
迫合い数度に及ぶ。
長澤筑前は正院より勢を率いて穴水へ馳せ向かうのところ、孝恩寺軍兵を率い中居口へ出馬、城外において一戦を遂げ
る。
家人谷大学采幣を取りて兵士を指揮し防ぎ戦う。
甲山の城主平子和泉長澤に加勢す。
そのあと越後勢相加わり都合二千余人、先陣松川兵部・せんこ壱岐・計見與十郎、中軍長澤筑前、後陣筑前男長澤
七次郎なり。
先陣の壮士ら競い進みて合戦甚だし。
孝恩寺勢を三手に分け相進みて一戦、家人長谷川仁右衛門ら、併せて越前浪人八十人戦死す。
谷大学敵を討ちて勇力を励まし戦死す。
家人石黒大膳谷に代わり采幣を採りてなお御方を下知し兵士を励まし、五島彌六・同善左衛門ら首を取る。
そのほか各身命をなげうって武力を尽くし、敵勢散走度々に及ぶ。
しかりといえども強敵といい多勢といい、月崎・中居・穴水・強盗塚の所々において御手の兵士多く戦死す。
ここにおいて一旦残兵をまとめ、穴水城へ引き取る。
時に七尾の敵兵陸路の押さえとして瀬嵐に砦を構え、岩神某ならびに温井・三宅の族類等これを守る。
これによりてこの筋へ出兵、新崎へ出迎え争戦す。
田向清右衛門同所上野にて首を取る。
そのほか家人ら武勇を振るい討ち取り、敵兵利を失い引き退く。
かつ奥郡所々の郷民ら旧好を重んじ志を通ずる者多し。
これにより棚木へ出勢。
出浦・鵜川・棚木・屋なみ・内浦などの所々、遊佐父子・温井・三宅らと合戦、敵利を失い敗走。
これを追討し敵数多く討ち取り、御方に功を立てるの者多し。
関彌太郎棚木において戦死、そのほか数輩所々において討ち死にす。
鹿島路久兵衛出浦において青板大膳を討ち取る。
その後また穴水へ帰陣する。
所々において勝利を得るといえども、他の援勢もなく兵粮も乏しきによりて、計略をもって上杉家の諸将を欺き、一旦和
平をととのえ七尾へ出、七尾城代鰺坂備中と城中において会面。
その夜法幢寺に寄宿。
しかるところその夜敵方夜討ちの企てこれありの由告知する者あり。
これにより夜中に出奔して氷見庄へ退居し、信長の旗下同国守山の城主神保安芸守氏張に寄寓す。
ここに鈴木因幡という者、元は紀州の浪人にてありけるが、諸国武者修行して能州へ来たり、綱連に寄寓し懇情を加え
らる。
家人加藤将監弟新三郎を養子となす。
その後畠山の招きに応じ臣下となる。
畠山没後越後に属す。
今度鰺坂が手合いにて七尾にありながら、その旧好を思い志を通じ、穴水籠城の間密々粮米等を献ず。
十月中旬因幡鰺坂を欺き穴水城に来たりて申しけるは、
「鰺坂人数これへ取り懸かるべき内談きわまり候。然からばこの人数にて持ち堅め給うこと計り難し。一旦降人のよう
にして七尾へ御出、その後有無を究められ然るべし」
と進める。
すなわち同意にて、因幡才覚をもって鰺坂と和平をととのえ、穴水より乗船し七尾へ着岸。
鈴木因幡・その子新五郎、家人浦野孫右衛門・宮川清右衛門・石黒大膳・木島小助等、そのほか譜代の内五六輩同船
に供奉す。
その余りの家人数多くの輩は陸路を経て七尾へ参会すべしの旨なり。
時に十月十八日なり。
鰺坂備中計らいがため法幢寺に入る。
同二十一日鰺坂に対面のため七尾城へ入り、鈴木因幡誘引し、そのほか家人十数輩供養す。
長澤筑前玄関に出迎え案内す。
鰺坂と対面、鰺坂梱情を尽くし饗応す。
時に松川兵部・せんこ壱岐、鰺坂に耳語速にこれを討つべきの由進むといえども、鰺坂許容せず。
これによりつつがなく法幢寺へ帰座なり。
然るに城中の者ども鰺坂へ申しけるは、この場を逃し申すことにてはなく候よくよく御思案あれよ申すにぞ、さあら
ば法幢時へ夜討ちせんずる由談合極まりける。
さて穴水に残し置ける侍ども追々に七尾へ馳せ来たり、ここかしこに二三人充ち隠れ居る。
ここに七尾町に長谷川六兵衛という酒屋あり。
ここにも長家数代の郎等関吉右衛門という者そのほか二三人もありけるが、夜に入りて男一人酒を求めに来る。
けしからぬ躰なれば何事にやと問うに、つつみて言わず。
ますますあやしく六兵衛妻女に申し含みて、酒など振る舞い色々と尋ねければ、今夜孝恩寺を夜討ちにすべきとて、
それ故の酒なりと語りて男は帰りける。
さればこそと驚き、吉右衛門を初め急ぎ宝幢寺へ馳せ付け、しかじかのよし申し上げる。
石動山よりも今度七尾へ御出の儀危難の機を察して、阿弥陀院(宮川清右衛門の兄なり。)使僧をもって迎える。
これによりひそかに宝幢寺を立ち去り、石動山へ赴く。
七尾勢跡より襲う事を察して、石黒大膳(白き袷の上に朱の胴丸を着ける。)宝幢じにおいて孝恩寺寝所に残留、敵
寄せ来るにおいては公の姓名をけがし討ち死にを遂げるべく覚悟を極め、しばらくこの所にこれありといえども敵襲
い来たらずにつき、跡より石動山へ赴ける。
しかるところに夜討ちの勢宝幢寺へ押し寄せけれども一人もなし。
さては早落ち行きたり逃さじと追い進み七曲坂にて追い付き、おめきさけんでかかりければ、関吉右衛門・木島小助
二人して坂上より大石を引きかけ引きかけ投げ落としける。
その隙に石動山に逃げのびる。
ここにも安居なり難く、氷見の庄へ退去。
(敵なお襲い至るべき事を計り、加藤将監・関惣左衛門・村井左京・浦野孫右衛門・田辺七郎左衛門・長壱岐・宮川
清右衛門ら数十輩、石動山の山内に隠伏して後拒に備うといえども、襲い来たらずの故、跡を追いておのおの氷見の
庄へ参向す。)
石黒大膳の所縁崩三郎衛門方へしばらく在留。
この後鈴木因幡・その子新五郎・弟鈴木権兵衛、七尾を去りて越中に来たり手に属す。
因幡はからいをもって二上山談議所金光院(真言宗法印一専、鈴木因幡従弟なり。のち命により還俗、家人となり更
科十郎太夫と号す。その後薙髪して堀内一秀と改める。)方へ移り、翌年まで在留なり。
同国守山の城主神保安芸守氏張(豊前守氏重入道一党男。)へ寄寓し、委曲信長へ(堀久太郎まで使札をもって仰せ
遣わす。)言上す。
同年十一月氷見の城主堀江弥八郎(一説。四郎兵衛。)敵対に付き、神保氏張出馬。
孝恩寺援勢のため出陣、先登し戦力を励み、落城に及ぶ。
同七年同国岩倉の城主岩倉薩摩相随わずに付き、氏張押し詰めこれを攻める時、孝恩寺出馬軍卒を励まし、城主薩摩
を御手へ討ち取り陥城す。
この時敵兵数十騎斥候に出、その中に城主薩摩これあるを、孝恩寺見切り、兵士を進めこれを討たせしむ。
果たして薩摩を長大和(初め三宅大和と号す。)これを討ち取り、傷を被る。
田屋六郎左衛門・木島小助・此木治部ら首を取る。
関吉右衛門・長壱岐ら傷を被る。
同年上杉家士大将同国湯山の城主河田主膳退治として氏張出兵。
この節孝恩寺湯山城後面へ向かい、城主城外へ出てこれを防ぐ。
御手の勇士ら競い進みて合戦甚だし。
時に計略を廻し城に火をかけ攻め破る。
ここにおいて主膳和を乞い城を明けて退去。
時に孝恩寺後面に在して下知もっとも甚だし。
鈴木新五郎(十八歳。のち源内と号す。)先登に進み幡頭半之丞と槍を合わせ、幡頭城内へ引き入るを新五郎なお進
撃。
川田三右衛門幡頭に代わりて戦い、川田傷を被り引き退く。
新五郎鉄砲傷を被る。
家人太田内蔵、奥山平内を討ち取る。
金光院一専御手に属し、夷守刑部を討ち取り深傷を被る。
田屋六郎右衛門これを助け退く。
長壱岐首一討ち取る。
金光院門弟英遍坊、(五箇一揆将大屋小次郎甥、のち家人となる。厳命をもって堀内半兵衛と号す。)千屋和泉と相
戦い両方傷を被る。
山田小六郎・加藤弥四郎らよく戦い傷を被る。
しかりといえども河田よくこれを守り城を抜けず。
時に城兵沖覚左衛門(十九歳)石黒大膳と内縁の好あり、これにより大膳命を承りて沖に通じ内応の計策をめぐらす。
沖元来河田家臣にあらず、一旦与力して籠城す。
これにより大膳与心を合わせ内応の時宣をはかる所に、計略露顕す。
これにより沖城中に放火して去る。
この節主膳城背の小口に出て兵士を下知し防戦。
時に城内放火の煙を見て甚だ驚き、城中に引き入り火を防ぐ。
孝恩寺兵士を進め急にこれを攻める。
主膳ついに保つこと能わず和を乞い、城を明けて上方へ退去す。
さて加越能軍事の品、委曲信長へ言上に及ぶ。
かつ能州表援兵の儀度々願いこれによりあり、書を賜る。
その後束髪し、九郎左衛門尉好連(のち連龍と改める)と改める。
神保安芸守氏張妹(新殿と号す)と婚姻なられ候。
媒酌は神保氏旗下越中南條狩野将監なり。
祝儀の使者伊久留了意これを勤む。
氏張対面して脇刺一腰(二王作)これを送る。
氏張より使者袋隼人これを勤む。
さきに信長より神保初め越中衆、連龍へ疎意あるべからずの旨台命これあり。
今また神保氏と縁を結ばるによりて、越中の諸士ますます以て親睦す。
時に再び義旗を挙げ、能州へ出征これあるべく宿望のところ、信長加勢遅延につき歎訴これあり。
よりて信長より書を賜る。
さて信長の武威日々盛んにして、遠近その風に望む。
越中国過半織田家に属す。
これらの趣委曲信長へ言上に及ぶ。
これにより書を賜る。
時に前年上杉謙信卒去につき、能国内乱。
温井・三宅、越後の諸将を欺き押領す。
温井・三宅能国を併呑せん事を欲して鯵坂備中と親を結び、家人荒子五郎兵衛を以て鰺坂方に付け置き、昼夜の安否を
問い甚だ梱実を示し、且つ金銀穀を送りその心を攬り、ついに謀言を以て鯵坂を欺き、甲山の城主平子和泉・轡田肥後
、正院城主長與市景連を攻めて争乱を始む。
まず計策を設けて轡田を欺き、和議を調え甲山を去らせしむ。
これにより平子勢気つきて城外へ出で戦死す。
また轡田と松百に戦い、肥後も討ち死に。
轡田嫡子監物舟を浮かべて越後へ逐電す。
次男新八郎父と一所に討ち死にす。
それより正院を攻め戦力を尽くすといえども、景連勇将にして毎戦七尾勢利を失う。
景連自身太刀を取りて力戦し武功を顕わし、温井家士大岡十右衛門(一説に岡本)馬上より落ちて切られたちまち
命を落とす。
太田三郎次郎・阿岸次右衛門、天正五年七尾落去の後、家旧好の所縁によりてしばらく景連に属し、この時所々に
おいて勇力を顕わす。
三宅善之丞(三宅長盛の庶家なり)景連の従兵加藤七度之助を討ち取る。
三宅長盛従兵石黒主殿・加藤某(七度之助の男なり)を討ち取る。
景連武勇逞しといえども援勢の頼みもなく、鯵坂・温井ら能国に横行してついに勝つ能わざることを察し、舟に取り
乗り越後へ退去。
(太田・阿岸この時能州に残り留まりて御家へ帰参。三宅善之丞・石黒主殿も後年家人となる。)
ここにおいて温井・三宅横行す。
時に長澤筑前、温井兄弟の体勢を計りて狼戻の心ある事を察し、鯵坂を進め温井・三宅を討ち亡ぼすべき事を議す。
鯵坂は許容せず。
長澤怒りて一身の覚悟を以て温井・三宅を討つべき事をはかる。
温井・三宅これを知りて七尾を退去し石動山に登る。
ここにおいて長澤父子兵を進めこれを追い、瀧坂において温井・三宅と一戦す。
長澤小勢にしてついに打ち負け、父子戦死す。
能国既に敵無し、温井・三宅その時を得、鯵坂を逐ってついに能州を押領し七尾城を取る。
鯵坂能州を出奔し江州へ行く。
後年菅屋九右衛門能州下向の節、菅屋に属し案内者となり下向す。(この時剃髪し休也と号す)
温井・三宅、能州を支配し七尾城に居す。
この間末森山城主土肥但馬と好を通ず。
さてまた家臣山荘藤兵衛・山田内蔵を以て連龍へ誓書を呈し和睦を請い、連龍その詐謀を察し、許容これなく憤り
甚だし。
その内乱の弊に乗じ、且つは信長出軍緩延たるにより、成功を急ぎ手勢を以て能州へ出兵し企てこれあり。
神保氏張ら出軍首途を祝し、乗馬あるいは軍器を進上す。
同年冬兵士を率い能州敷浪へ出張、本泉寺(敷浪にある一向宗)に陣をおく。
時に土肥但馬使節を以て、七尾出勢これあるにおいては同志すべしの由なり。
しかりといえども疑いこれあり許容せず。
これにより但馬家臣堀江某の子堀江三丞をして質たらしめ、且つ但馬陣所へ参来す。
連龍対謁これあり。
但馬情意を述べ梱厚を尽くす。
これにより異心なき事を察し、後日人質を返す。
時に温井・三宅は出勢に驚き、所々砦を構え防守に備える。
本郷鉢伏山砦、八代越中(一説。田代備中)・温井筑前。(紹春の甥)
金丸佛性山(近代は寺家という)砦、八代肥後・古浦屋新助。
東馬場砦、山荘監物。
小竹砦、成田氏・武安氏(一説に国安)らこれを守る。
ここにおいて越年なり。
正月此木治部・中村市右衛門・小林図書・長壱岐・長次郎左衛門・神保出羽・伊久留了意・小原十郎左衛門・木島
小助・平井孫助ら、天正六年以来近江・越前及び能越において、命により大節の使いなど相勤める。
その功労を賞し各感書を賜う。
その後暫く越中へ御越し。
同八年三月九日重ねて能州福水に出勢、
この時真言宗丹治山福水寺に仮に陣す。
福水寺は一作に円念坊。
朝日山を取り立て居城たり。
時に能登郡小竹村農民霊光(関惣左衛門従来より相知の者なり)命を承りて間者となり、七尾へ往き返し敵方の体勢を
窺いこれを告げる。
敵これを察し霊光を捕らえ難儀に及ぶ事ありといえども、口才を以てついにその難を逃れる。
中居八郎左衛門・穴水榮斎五郎兵衛・熊木浄念(長三河末子。近代に蓮称寺と号す一向宗。)・大野八郎左衛門・笠師
番頭(芳春)・河崎徳昌寺(長浦徳昌寺二男)ら、天正六年以来福水出勢の節に至るまで志を通ず。
同年閏三月十四日軍事を柴田勝家・佐久間盛政に相議すべきため尾山へ出で候ところ、盛政木越の一揆一向宗光徳寺
退治のため発向。
則ち盛政と一緒に木越へ赴き、大浦口より搦め手に押し詰める。
不意の事ゆえ御手の士卒大半素肌にて俄攻めにせむ。
故に後面最前に攻め敗り、光徳寺戦死しついに落居す。
家人各武功を顕わす。
既にして福水へ帰陣。
この時玄蕃武具を長持ちに入れ常体にて出立、何方へと尋ね有りけれども包みて言わず。
強いて御尋ねのところ、木越の一揆光徳寺を討つべくため罷し向かうのよしにつき、幸いに候間加勢申すべき旨仰せ
入れければ、玄蕃に達して止められるといえども、是非とこれ有り搦め手大浦口より押し寄せ、前面の寄せ手色めく
ところを後より責め入るところ、観光坊進みて加藤将監と槍を合わせ、小原十郎左衛門(この時勝家の方へ使いに
遣わし越前にこれ有り、玄蕃方より勝家方へ木越の一揆討つべき由案内これあるを聞き、金沢へ来たり申すところ、
柳橋にて連龍玄蕃と仰せ合わせ加勢につきそのまま素肌にて御供申す。)小竹十郎と槍を合わせ討ち死に。
上野甚七郎銃丸に中たり死す。
浦野孫右衛門よく戦い傷を被る。
守兵防戦はなはだしといえども、連龍しきりに兵士を励まし、各奮戦武力を尽くし後面を責め破り城内に乱入す。
これにより大手共に破れ、光徳寺与党の兵士ことごとく死亡す。
盛政大いに連龍の軍労を謝す。
勝家この事を聞き軍功をねぎらい、種々(絹染め。皮。乾し魚等。)を贈進、その旨盛政へ演述し、盛政家人赤塚
九郎兵衛福水に持参す。
同月温井筑前・八代越中ら福水を伺う。
連龍一戦に敵兵を討ち取り、追撃して本郷鉢伏山砦を乗っ取り勝利を得、陣をここに居らる。
かねて白瀬出に塞を構え、鈴木因幡・田辺七郎左衛門ら指し置きこれを守る。
時に本郷の番兵襲い至るを見て、鈴木因幡兵を発して山上より進み討つ。
連龍福水より出勢一戦に及ぶ。
家人ら勇力を励まし討ち破り、敵兵敗走す。
御勢競い進みて追撃。
時に敵兵開戦して御方少しく却く。
上野孫十郎(のち隼人と号す)・永江善助ら四人小返しをしてよく戦う。
鈴木因幡松枝を折りて采幣に比し兵士を励まし下知を加え、御手の兵士戦力を尽くし敵兵また散走す。
連龍旗を進め、敵敗乱の機に乗じ直ちに鉢伏山を乗っ取り砦陥る。
温井・八代ら金丸の砦に逃げ去る。
ここにおいて鉢伏山に陣を居き、七尾を攻める兵略を廻す。
これらの趣委曲信長へ言上に及ぶ。
その後温井景隆、三宅長盛、三宅左兵衛をして連龍に附いて罪を信長に謝し、七尾城を献じ寛宥の儀を願望す。
ここにおいて連龍私に指し置き難く則ちその旨言上。
しかりといえども父兄の仇たるによりて、強いて誅戮を行い鬱憤を散ずべくの段分けて言上に及ぶ。
またその門葉温井九郎右衛門・三宅若狭を以て、平井伊賀守によりて音物を送り、柴田勝家・菅屋長頼に通じて、
積罪を構えるべく謀計をめぐらす。
同五年五月金丸の敵兵八代肥後・同越中ら菱分へ出兵す。
則ち勢を進め、迫り合い数刻に及ぶといえども勝負を決せず、暮れに及びて互いに兵を納む。
御方林三郎右衛門(一説に三郎左衛門)討ち死に。
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