1987年、金沢市蓮花町の専業農家山下博さんはお米の無農薬栽培を考えていた 時を同じくして特別栽培米制度が発足した 特別栽培米制度とは、特別な栽培方法で作ったお米ならば生産者と消費者が直接取引きしてもよいというものであり、当時の食管制度から一歩踏み出した画期的な制度だった 今のままの自然を次の世代へ残したい そのために、農薬を一切使わない農業を始めたい 無農薬栽培は生産性が低いというようなことは些細な問題でしかない 山下さんは、この特別栽培米制度を利用して農薬を一切使わない米作りを決意した そして、自らの決意を内川地区別所町に住む知人富永さんに告げ、協力を頼む 富永さんは、山下さんの情熱に打たれ、 娘さんが通う若草幼稚園のお母さんたちや知人・友人に呼びかけた お米の収量の少ない山間地のたんぼで 無農薬のお米を作ろうと頑張っている山下さんという農家がいる 何とか協力して、そういう農家を支えて行けないだろうか 幼稚園のお母さんたちは安全な食べ物を求めていた 富永さんの呼びかけに集まった仲間たち これがお米の会の始まりだった 山下さんと富永さんは早速必要な手続きを始める 二人は会員の住所・氏名・お米の契約量・印をもって県の食糧事務所を訪れた しかし、受付の担当者からはけんもほろろの扱いをうける この担当者は特別栽培米制度についてまだ知らなかったのである 二人はあきらめなかった 二人の情熱はすさまじかった アポなしで食糧事務所所長と思われる人に直接訴えた こうして、山下さんは特別栽培米制度適用の石川県1号になった さぁ、山下さんの挑戦は始まった 会員たちの援農も始まった 無農薬米栽培には不可欠の夏の草取り作業だ 会員たちにとっては生まれて初めてのたんぼだった 手伝っているのか邪魔をしているのかわからない状態だったという たんぼでひっくり返って全身泥だらけになる者 土に足がはまって抜けなくなる者 悪戦苦闘の連続だった 1991年3月、内川で産業廃棄物処理場問題がおきた たんぼにとっても大問題だった もちろんお米の会も反対した そんな中、住吉の農家で反対運動のリーダーである山田一ニさんと出会う 山田さんは同じ生産者として山下さんのよき理解者になった 山田さんもお米の会に参加した ウンカが大発生しみんなで退治した年があった 梅雨が明けず長雨が秋まで続いた冷夏の年があった たくさんの野鳥がたんぼの苗を踏みつけた年もあった 沼地のようなたんぼでゲタをはいて稲刈りをした年もあった …………月日は流れた たんぼとの様々なつきあいの中で、会員たちは確かに感じ始めた 土というものの重み、たんぼの一歩一歩はなんと重いのか たんぼの力、土の力、お米一粒一粒の力 そして、農業の力 のどかな蓮花のたんぼで、山下さんとお米の会の奮闘は今年も続く |
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