金沢舞踏館について |
金沢舞踏館は金沢市を中心に「舞踏」(Butoh)の活動をつづけているグループです。 1976年、師である土方巽の暗黒舞踏派・白桃房から独立した山本萌が、「金沢舞踏館」を名乗り、東京で活動を始めました。翌年に、山本の郷里・金沢に戻り犀川上流の古洋館を小劇場に改造し、そこでゆっくり作品作りを手掛け始めました。この頃に、公私に渡るパ−トナーである白榊ケイが新たに参加し、以後二人を中心に活動が広がり、現在に至っています。 前衛舞踊と言われた舞踏を20年以上続けて来られたのも、金沢の文化的土壌に負う所が大きかったと思います。地元の学生劇団や、新しさを求めた陶芸家、画家、詩人、ミュ−ジシャン等が、最初の支援者となり、多いに励まされました。 舞踏は、1960年代に山本の師、土方巽と大野一雄が出遇うことによって創られた舞踊の新しいジャンルです。世界ではbutoh(ブトー)として、ANIME(アニメ)に先駆けて日本の現代芸術の独自な表現として知られています。総合芸術として屋内、野外の劇場空間での表現を目指しています。 上辰巳劇場での創成期を経て、80年代に金沢舞踏館は積極的に動きだしました。 東京や関西等県外での公演、また1988年のアメリカ公演等、海外公演の機会も増え始め、地元で公演する機会が少なくなっていきました。1996年の金沢市民芸術村の開村時の「こけら落とし演劇祭」へ参加し、その空間の面白さに新たな創作意欲を掻立てられ、以後毎年のように芸術村のドラマ工房や里山の家を使って作品を発表するようになりました。 そして1999年からオ−ストリアを中心として、公演、ワ−クショップ、共同製作を継続して行うことができました。これは山本と白榊にとっておよそ1ヶ月という集中した創作期間でした。ダンサーと共に1日を使って稽古できる作業環境は日本ではなかなか得られない体験で、創作活動を深めるのに役立ちました。 土方巽の直弟子として、土方の指導の業績や舞踏譜の解説など、近年は記録作業の依頼も増えています。そして公演として、土方著作の「病める舞姫」よりの作品づくりも始め「ふいご少年と煙玉少女」で足掛け4年で、金沢から東北ツアー土方生誕の地・秋田、そして活動の地東京と巡礼の公演をいたしました。 現在は、蔵スタジオを中心に年2回の舞踏合宿、アートパフォ |